”苦行”の読書 ~遠藤周作『沈黙』~

遠藤周作の代表作。江戸時代のキリシタン迫害の史実小説と言うことだけは知っていて、キリストの踏み絵を踏ませて、さらに信徒を拷問するシーンを想像すると惨い。こういう小説は楽しものではないのはわかっているから、読むことを今まで避けてきた。40を過ぎるまで。でも、今年に入ってから、宗教をテーマにした私小説を書いてみたくなり、そうなると勉強が必要だと痛感。つまり、『沈黙』はやはり読むべきだと。

遠藤周作の小説を読むようになったのは今年に入ってからだ。それは、わたしに書くことを勧めてくださって、いつも背中を押してくれる師匠のようなIさんに遠藤周作を読むならどれから読めばよいかを相談したときのこと。まず『深い河(ディープリバー)』を読むと良いよ、と言われ、春に読んでみたらものすごく感動した。そこから、短編集もいくつか読んでみてその中でも「夫婦の一日」は傑作。

さらに、遠藤周作に関しては、もう彼の小説を一冊も読んだこともなかった若い時に、”善魔について”というエッセイに出逢って、これはわたしは頭をがーんと殴られたくらいに衝撃を受け、絶版になっている単行本を探し出して手に入れて、折に触れ読み返している。

さぁ、次はわたしが避けては通れぬ課題本『沈黙』。今年が終わる前に読む。そう決めて、古びた文庫本を入手し、薄く茶色いページをめくり始めた。

表紙の雲の隙間から差し込む光はまさに・・・神々しい。

苦行じゃないか・・・(もだえる)と読み始めてしばらくは、つらかった・・・本当に面白い要素は一つもなく、苦しくて辛いだけのものがたりの進み方・・・長崎に降り立った司祭ロドリゴが、身を隠しながら長崎の町に入り込み、うじ虫には体中を這われ、海に杭で縛られ拷問の末に死んでいく棄教しなかった平民をただ眺めることしかできない・・・半分くらいまで読んでそんな調子だから、嫌で嫌でたまらなかった。しかし、ここまで読んでしまったからには途中でやめるわけにもいかず、焦らず自分のペースでひとまず完読を目指す。

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するとどうでしょう~!!(劇的ビフォーアフターのナレーター風)

井上筑後守が登場するところから、どんどんドラマチックになってゆく。

※ネタバレの可能性あり、などといちいち注意書きしているのは好きではないのですが、この『沈黙』はパードレロドリゴが最終的に踏み絵を踏むのか、そして転ぶ(棄教)のかどうかがわからなければ大丈夫であろう、という解釈で、下記は綴っていきます。

ロドリゴは自分や日本人信徒を苦しめる役人は非道極まりない人間だと思っていたら、”ものわかりの良さそうな温和な人物だった”・・・という。目の前にいるのがまさかその”イノウエ”だとは・・・やせこけた頬のロドリゴが目だけ驚きのあまり大きく見開く様子を勝手に想像した。

この時はじめて老人の動いていた手が止り、まるで悪戯な孫をなだめるような眼差しで首を大きく振った。

「我々は理由もなくパードレたちを罰することは致さぬ」

「それはイノウエさまのお考えではありますまい。イノウエさまなら即座に刑罰をあたえられるでしょう」

と、役人たちは冗談でも言われたように声を立てて笑った。

「どうしてお笑いになる」

「パードレ。その井上筑後守様はそこもとの眼の前におられる」

茫然として、彼は老人をみつめた。

この表現、発想、すごくないか・・・

さらに、クライマックスでは作者の天才ぶりに打ちのめされた。ロドリゴが苦しんでいるときに壁の向こう側で牢番が眠りこけて鼾(いびき)をかいていると思い、このギャップは何なのだ、と笑いさえこみ上げてしまったロドリゴ。そこに、通辞と沢野(フェレイラ)から”これは鼾ではない、お前が転ばぬために、穴吊りされている日本の信徒のうめき声だ”と聞かされ愕然とするあのシーン。

こんな発想ができるなんて、とんでもない作家だ。

遠藤周作の小説がものすごく好きになった。読むたびに驚くのは、クリスチャンである遠藤周作が神について懐疑的な描写をストレートにしているところだ。彼はいったいどういう心の持ちようで書いていたのだろう。

本当に興味深い。

こんなに苦しみ祈りを捧げて、たくさんの不幸が起きているのに、神はずっと沈黙している、何もしてくれない・・・

そうだよね、そう思うはずだ。

神は本当にいるのか。

読み終えて、自分の生きている今の時代に思いを馳せた。

さまざまな宗教がありそれぞれの宗教を信じ、神に祈りを続け、幸せな人もいるが、いっぽうで事実、不幸も起きている。そして、その不幸の歴史はずっと繰り返されている。

そんなことがあっても信じること、祈ることばかりしている人間は、なんという理解しがたい生き物なのだろうか。

いっそのこと、新しい宗教でも創ればいいのではないか、とすら一瞬そんな考えがよぎった。

新しい宗教、どうかしら。どの宗教も誕生した当初は新興宗教だったわけだから。アリかもしれない??