老婦人と車

「道路にはヤクザがいる」と言っていたのはわたしの父である。

運転免許をとってまだ年数の浅い20代、まだ実家暮らしだった頃。帰りが遅くなったという姉を駅まで迎えに、一人で夜遅くに車を運転しようとした私に「危ないぞ、お父さんもついていく」と言って「大丈夫だよぉ」と言う私に言った言葉だ。ずいぶんと大げさに心配する父ではあった。「道路には、どんな人が運転しているかわからない、だから危ない、用心に用心しないといけない。」ということから「ヤクザがいる」という表現をしたまでなのだろうが・・・苦笑。

あの時の父の言葉がなるほど、ヤクザではないにしても、人の命が思いがけずなくなるリスクがある、車道というのは色んな人間が運転ちゃっている危ないフィールドなのだということを最近、ひしひしと改めて目の当たりにした。

私の住む家の隣に、89歳のご婦人がひとり暮らしをしていて、つい先月まで車だって運転していたのだ。そのご婦人は”おばあちゃん”という呼ばれ方は、ご自身も好まないのか60代の娘さんは「ママ」と呼び、ご自身も「ママ、これこれしたらどう?って娘が言うのよ」と自分は「ママ」であり「おばあさん」なんかではなく、しっかりしているから、緑地保全などの社会活動にも長年精力的に取り組まれているし、忙しくて風邪もひかないと自慢するほど。

けれど、自家用車をひとりで運転するほどしっかりしているかと言えば、みているこっちは、心配だ。なにせ、玄関のインターフォンが聞こえず宅配便の方が少々困っている、ということは多々。耳が悪い。私との会話だって、どうにも声が聞こえづらいのか会話が半分ほど噛み合わない。脳の反射神経も衰えているのは自然なことかもしれない、と思わせるようなスローテンポであることも確か。車を車庫から出すときだって、クラクションを鳴らしてから、もたもた危なげに(おそらく本人的には、用心しながら、だろうが)左折してから進行方向へ出発。直進しだしてから、その先はちゃんと運転できているのかしら??と思っていたし、私から見てこんな”高齢”の女性が運転するのは、普通に怖いよ。

2019年に東京・池袋で当時87歳だった高齢者の男性(社会的地位が高い方)が運転する車が暴走し、母子2人が死亡したという痛ましい事故は忘れられないニュースだ。高齢者による認知機能低下は自然の摂理。だから、車を運転する、というのはひとりで悠々と普通の日常生活を送るというものではなく、社会的にこの人は運転しても大丈夫だろう、というお墨付きが必要だし、そうではあっても、色んな人間がそこらの道を運転しているから、車は「ヤクザも同じ道路を走っている」ほどに危険と隣り合わせのモノなのである。

だから、先月、娘さんが実家に来られていて「キャサリンさん、お久しぶりです!いつも母がお世話になっています。最近、母何かあったりしてませんか??」と声をかけられたので、わたしは「お車のことがね、運転されているのが心配なんですよね・・・」と言った。離れて暮らす子どもさんには、母親に運転をさせて平気なのかしら??と思っていたから。

すると、娘さんは、目を丸くして(本当に、驚いたように)「え?母は昨年の11月半ばから運転は辞めたのでしてないんです。そのときに車を処分しようかと話してたら、家の前が車がおいていなくてスペースがあいていると、なんだか 防犯上不安を感じるから置いておきたい、置いておくだけで安心なの、って言うから、置いてはあるんですけど・・・」と言う。

一年前から運転していないはず?・・・

「あの、お母さま、運転してますね・・・はい。実際にわたしもうちの夫も、はらはらしながら見ていたので。免許はあるんだろうな、と思いつつも、大丈夫かしら?って気になっていたんです」

そういう私の話を聞いて、娘さんは信じられないというお顔をして「わかりました。びっくりしました。キャサリンさんに聞けて良かったです。ほんと、何かあってからでは笑えないですしね・・・母には私から、さりげなく探りを入れて”運転していないよね?”って念を押してみます」ということになった。

しかし、数日後、つまり年明けてから、老婦人の車がない、ということが3日ほどあった。10日の間に。やはり、運転して出かけていた。これは・・・娘さんに報告しなくては・・・と思いながらも、本人に確認してみようかと思いつつ、本人にいきなり車の運転やめたほうがいい!というのも、ご老人の自尊心を傷つけることは色んな意味でも危険。もやもやする日が続いた。

他人のことに口出すというのはなかなか慎重さが必要になってくるものだ。しかし、心配しているんだよ、と伝えることは悪いことではない。そこで、金時豆を煮たので、そのおすそ分け、という口実で、お隣の玄関のチャイムを鳴らした。

ご婦人は朗らかに出てきて「あら、お豆は食べたほうがいいって言うものねぇ。ありがとう」と喜ばれ、その時に「あのね、車の運転されているのが心配なんですけど、大丈夫ですか?何か、お買い物とか書類を届けに、とかそんな用事なら、私も手伝えるから、気軽に言ってくださいね」と聞くと・・・

ご婦人は「車ね、あの、そうなの、この間は、斜め向かいのお兄ちゃん(付き合いの長い70代のおじさん。)が、わたしの車を運転してもらって、わたしが助手席に乗って、お買い物と灯油を買いに行くのに付き合ってもらって、助かったんだけどね~。あのね、子供たちの前ではわたしは車に乗っていないことになっているのね、でも今、色々忙しくてね、出かけなきゃならない用事が3月までは続くのよ」といたずらに笑ってそう言ったのだ!

はぁ・・・そうですか・・・「でもご自身で運転されるのは、ご家族も心配されるんじゃないですか?何か用事があるなら、わたしが代わりに行くなどお手伝いできますよ。免許って、そのお年くらいになるとどれくらいの頻度で講習に行ったりするんですか?」(もしや免許が切れているのに乗っているんじゃないわよね??という探り)

というか、そもそも彼女くらいの認知能力のひとがまだ免許持てるものなのか??

それこそ日本の自動車免許の資格制度って、18歳からなんて年齢は決まっているのに、何歳までって決まっていないのはおかしいんじゃ??だって、目の前のご婦人、89歳だべ!!?

彼女は「わたしはね、免許ゴールドなの、今まで事故も起こしたことないの。あまり乗っていないから、ゴールドになるんだけど。うちは主人が運転しなかったから、わたしが車を運転する必要があったのね。だからいざという時のためにも今でも免許は持っているのよ。ところで、あなたはお仕事はどうなの?」

というので・・・旦那様がご逝去されてからもう5年ほど経つかと思うのですが…89歳で、運転しないといけないような”いざという時”ってどんな時なのかしら?そして話題をすり替えようとしてる・・・

ここでわたしは、会話をしていて、なるほど、と分かった。

高齢者で運転しているひとというのは、自分が高齢者で認知能力が低下しているということを自覚していない=自分が年寄りだという自覚はない。それなのに、都合が悪い話になると、聞こえないふり、とぼける、というそういう柔軟性だけはやたらに上手いのだ。

そもそも、ご家族であるお子さん方に内緒で運転しているというのは、まずよろしくない。そして、そんな状態であることを知っていて、何も知らんぷりをするのも私の信条としてはできない。

わたしは、娘さんのご自宅に電話をかけて、事情を説明した。

「お母さまは、”子供たちには、絶対運転しちゃだめって言われているから、運転していないことになっている”けれど、必要だから、こっそり運転している”ということを私にお話されました。それを聞いては、わたしもお伝えしないわけにはいかないので・・・お電話しました。運転されるなら、ご家族にも理解いただいた上でされた方が良いし、運転しなければいけない”いざという時”がわからないのです。」

その話を受けて、驚いたことに2日後の週末のこと。

息子さんが来られて、ご婦人の車の鍵を「斜め向かいのおじさんに預けて、母が独りで勝手に運転できないようにすることにしました」ということになった。「そうした方がいいだろう、って本人も自然と納得したようです」

いきなり、鍵を取り上げて、離れて暮らすお子さんが持つというのは、母親を納得させるのにハードルが高いと思われたのだろう。

年老いた親を持つというのは、とても気にかかるものだ。なにせ、子どもにとって強くてしっかりした存在を貫いてきた母親というのは、特に。

母のことを心配して、今回、車のことを連絡くださったキャサリンさんを含め、とても親切なご近所さんに恵まれ本当に感謝しています、とたいそうお礼を言われたが・・・

しかし、最後に、ここまで来たら、逆に笑えないのだが笑ってしまったオチを、ご婦人はつけてくれた。

その斜め向かいのおじさん。「ねぇねぇ、ちょっと。俺が、車の鍵を預かるってことで息子さんから挨拶に来られて、そうだね、必要な時は、言ってくれたら、自分がいるときはその車で運転して連れてってあげるから、っていう話にしたんだけど、息子さん帰ってから次の日に、”ねぇ、内緒で車の鍵は貸してくれるんでしょ?”っておばあちゃん、言いに来たんだよ」

って!!!

「それで、俺は”それはできないよ、息子さんからはそういう話じゃなかったから”って断ったよ」と。ほっ。

”母は車の鍵をお向かいの方に預かってもらうことを、自然に納得していたようでした”なんて娘さんは安心していたけれど、ご婦人は運転できなくなる、とは思っていなかったようだ。89歳でも自分が車の運転をするのは、大丈夫。という意識は抜けていなかったんだな。ま、事故を起こしたりしていなかったから、そう思っちゃうのはそうだろうけれど。

しかし、結果として、彼女は自分の想定外に、運転から引退するという流れに組み込まれて、いつの間にか運転卒業させられたことを今どんなふうに感じているのだろうか。

もうだいぶ長く生きてきたんだから、最後のほうで、車の運転で思わぬ被害者加害者になって誰かを悲しませるようなことがあってはいけないからね。車を運転しなくても、安心して朗らかに暮らしていってくれたら、ご家族もそして隣のわたしも嬉しい。